コミュニケーションとネオ体育

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 就職戦線は大学の新卒学生にとっては,やや緩んできたとは言え,未だ厳しい状態である。しかし,毎年ほぼ100%近い,求人を受ける学部・学科もある。当然,就職試験には全員合格と思われるのであるが,それがそうでもない。面接でけっこうはじかれる学生もいるのだ。

その理由は,コミュニケーション能力の欠落。

面接官がいろいろと,人間関係のことや会社でのトラブルにあったときどういう対処をするかと聞いても,うまく答えられないのだ。むしろ,「わかりません」ということも言えず,モゴモゴするか,黙ってしまう。あるいは,質問の趣旨を聞き直して,再度答えると言った,機転も利かない。こういう学生は,職場に入っても「使えない」とのこと。

この手の学生は,大学時代においても例えば,大学のパソコンが使えない。使えないとは,「使うことができない」のではなく「研究室の先生にパソコン利用の許可を求め,パソコンを貸してもらう」ということができないのである。論文の中には大学のパソコンの中に必要となる資料も入っているので,当然そのパソコンから資料を抜き出していかなければならないわけだが,そういう趣旨を先生に伝え,パソコンを借りるという,コミュニケーションがとれないのである。

また,小さな町にある大学などでは,入学後,鬱やノイローゼになったり,引きこもりになったりする学生が急増している。下宿生に多いのであるが,大学もいろいろな対策を講じている。

例えば,友達作りと言うことで,4月中は,大学の環境になれるため様々なコミュニケーション開発プログラムが実施される。2泊の合宿が行われたり,教授を含めたコンパが何度も開催されたりするのである。早くお互いに名前を知り合ってお友達になり,教授とのつきあいや,先輩学生とのつきあいなどで精神的に追いつめられることがないように対策を講じるわけだ。

学生のこのようなコミュニケーション能力が低下してきた理由の中でもっとも大きな原因はケータイにある。と考えられている。

コミュニケーションが苦手な生徒であってもケータイの稼働率は高く,メールのやりとりは活発である。たとえば,下宿先の学生とはほとんど話す事はなくても,出身地の地元のメール仲間とは,頻繁にやりとりをする。あるいは自分に必要な情報は,インターネットの情報や掲示板などで得ることができる。つまり必要な情報を直接,人にあって得たりあるいは取材したりするということがなくとも何とかやっていけると言うことだ。

また,本当に気のあった友人とのみ話はできるが,下宿することになり,離ればなれになってもケータイでつながることができるため,あえて新しい友達を現地調達する必要が無いわけだ。・・と本人は思うわけであるが,実際はやはり新しい環境でケータイ仲間ではなく,生身のつきあい,本当のコミュニケーションがとれないととても学生生活はやっていけない。

下宿では互いの助け合いや愚痴の言い合いなどが不可欠となるが,それは,当人同士の直のコミュニケーションが成立して初めて可能なことだ。これができない学生は,引きこもるか,孤立し精神的病に陥ることがあるのである。

それでかなり前から大学ではゆるい連帯を特色とするサークル活動が盛んになっていた。いわゆる同好会のようなものであるが,完全な上下関係と活動目的があるクラブ活動とは違ったゆる〜い組織体である。しかし,今はこのゆる〜い組織体にも属さず,孤立する学生も多く,これらの中から脱落する学生も多い。

未だに就職の採用条件において,体育会系の生徒が重宝されるのは単に,体力があって組織の中で従順に仕事ができるという理由だけではないようである。

もともとケータイを介した体育的活動などないのであって,まさに肉と肉とのぶつかり合い,根性や意地,粘り強さの表出の場が体育会系部活の活動実態だ。そこで4年間やりとおしたと言うことは,当然,会社においてもコミュニケーション能力を発揮し活躍できると考えられるわけだ。

そして今,体育は小中高大の学校において,コミュニケーション能力の獲得のための手段として重宝されてきている。また,体育の目的自体も,より高く,より速く,より強くといった,闘争的で競争的な特質よりも,ともに学び,ともに助け合い,ともに達成する喜びを共有するといった,協同的活動が大事な目的となってきたのである。

かくしてわれわれが30年前に提唱していた,競争を廃したトロプスが見直されてきた。新人研修においてもトロプス的プログラムが使われているし,当然,小中学校の体育の研修においても「からだほぐし」という単位名で伝達講習がなされている。

また,保育園や幼稚園などではかなり前から,トロプスは実施されており,有効に機能しているようだ。

一時期,マスコミのタカ派的コメンテータなどが小学校の徒競走において,手をつないでゴールするシーンを見て,こんなの甘っちょろい! 社会人となって競争社会に入っていく企業人にとってはこんな発想は使えないなどといっていたが,まさに笑止千万。

彼らはすでに格差社会を理想としており,食うか食われるかの戦いはあたりまえ,負け犬はワーキングプアとして生かさず殺さず使っていこうという腹だったのである(それはまさに成功したが)それからすれば手をつないでゴールする幼稚園児などまさに地雷的存在であったろう。

しかし,トロプス的精神がもう少しはやく社会に浸透していたら,今の様々な閉塞的状況は回避できたかもしれない。

今はやりの持続可能な社会という観点も同様であろう。

人間関係の根本的なところを競争や闘争においた経済・文化・社会の有りようが招いた弊害が今大きな問題となっている。

 小売店は大規模店に潰された。地方は疲弊し,2〜3の都市のみが繁栄を謳歌している。しかしその都市であっても,大きな格差が社会に根付き,路上生活者が増加の一途を辿る。お受験は格差の再生産であり強制よりも競争をとった社会がたどり着いた問題が,少子化であり,企業買収,偽装,自殺,家庭崩壊などに連なっているのだ。企業の経営自体もコミュニケーションの欠落によって,社会問題を発生させている。競争に目的をおいた発想は根本的に時代遅れとなった。

共生こそ今後,社会を再生させるカギとなろう。

共生は1対1での相手のからだや表情の見える対話から始まる。競争を中心価値においていた体育は今,徐々にではあるが共生・自立協働的トロプスに変わりつつある。

体育は今新たな価値を抱いて再考される時期にきた。ケータイ的人間関係では体育は成立しない。それだけで痛快なことであり,体育の存在意義がある。

さらにトロプス的精神の大きなウエーブが政治文化経済のなかで発生してこそ,今後も持続可能な生活ができる。ネオ体育が今見直される時期にきたのだ。

さて、東京オリンピックだ・・